盆の間、父がうちに来ていた。昨日は涼を求めて「高野山に行こう」と決めていた。車の中で行き先を20回以上は訊ねられたので、家に帰り着いた頃には父は高野山に行ったことを覚えてはいないだろう。
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「老いる」とはこんな形になってあらわれる。仏教でいう人間の恐怖の対象は「死」「病」「孤独」らしい。
私もそのすべてがだんだんと身近になって来ていることを感じている。そんな日々の中、正月と頼みごとがある時くらいにしか信仰心など持ち合わせない私だけれど、「老いが迫れば『般若心経』を唱えることも考えてみるかな」なんて思っていた。
そう、ぼんやりとそんな事を思っていた。
一昨日の夕方、父を家に置いてぶち犬たちとお池の散歩に出かけた。一周して帰りの駐車場で、同じくウォーキングを終えて車に乗ろうとする女の人から「いゃあ~、久しぶりやね」と声をかけられた。犬連れでない方ともここでは顔馴染みがいるので、「誰やったかなあ」と考えながら挨拶をしていたら、「うちの子2月に亡くなったんよ」とおっしゃるので、頭の中で、記憶のデータを整理する。
「○※△□※○・・・・」出ました!「河内長野のセントバーナードの!」   --正解!
「そうですか・・・、気持ちの整理はつきましたか?」
「まだまだ、あかんね」
「私は前の子を亡くした後、これは新しい子を迎えないと立ち直れないと思って・・・コレですよ」アテルイを指す。
「夜になると、ネットでブリーダーさん探して、よし決めた!って。でも、朝になるとやっぱりやめとこうって。それを何度かやったねえ、なかなかねえ」
「それは、きっと縁がなかったんですよ。縁がある時はフッと偶然にあらわれたりするもんですよ。だから、それでよかったんですよ」
それから、「車でSB君をよく高野山に連れて行ってあげてた」という話になった。父の話もしていたから、明日高野山に行くと話した。
そうすると、「そうなん?じゃあ、案内したげましょか?」
私は「ご自宅はこの近くのはずだし・・・、???」という顔をしたのだろう。
そうすると被っていた帽子をスッと上にあげてくださった。剃髪が覗く。
「あっ!(そうだったのですか。。。)」
偉そうに尼僧相手に「縁」を語ったことを恥じながらも、話がはずんだ。
自宅のお寺で護摩も焚かれているそうで、お誘いいただいた。それも犬連れOKで。
こういう縁を感じることが、とてもよくある。

昨日の高野山は23度。下界とはー10度の差だった。
父はやっぱり高野山に行ったことを覚えていなかったけれど、お土産に買って帰った胡麻豆腐を美味しい美味しいと食べていた。それでいいではないかと思った。
迎え盆には母の墓参りを済ませて、いつものしあわせの村を散歩した。暑かったけれど、緑の風はさわやかだった。
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父と過ごした4日間、しあわせの村でも高野山でも母が一緒だったと思う。ご縁も母のお陰のような気がして、父と共に仏壇に手を合わせた。